ひげパパ?

〜Be Happy!〜

TOP>自己紹介>ひげパパ物語

ひげパパ物語

★誕生。そして、成長。

わたしは1972年の春、神奈川県のとある病院で、へその緒を首に巻きつけながら、瀕死の状態で生まれたんだそうです。
「お前は生まれるときから親に迷惑をかけたんだよ。」
と、いまだに母に言われています・・・。
 
そんなわたし自身も、いまでは二人の娘(0歳と2歳)を持ち、りっぱな(?)ひげをたくわえた”ひげパパ”となっております。こんな状況のわたしがなぜ仕事をやめて、サイドビジネスをメインビジネスとしてやるようになったか、ちょっと長くなりますが、寄り道なんかもしながら、お話していきたいと思います。

ところで、あなたの子供のころの夢ってなんでした?私の子供のときの夢は、お金持ちになる事でした(笑)。おそらく家が貧しかったからでしょう。しかし、そんな無邪気な夢も日々の生活の中で、いつの間にか本当に夢物語になっていきました。つい最近までは・・・。

幼稚園、小学校では神童!?と噂されるも、年を負うごとに全てが平均値に近づいていき(身長だけはかなり平均値を下回ってますが・・・。)、ハタチ超えればタダの人に成り下がってました。(いやいやタダの人ならまだましとはうちの奥さんの言葉。きついです。)
ちなみにハタチのときの私はどんな男だったかというと、浪人生・・・。つまり二浪。たしかに人並み以下かも・・・。

★2年を過ごした浪人時代。

しかし、二年もあった浪人時代のおかげで、本をよく読みました。

もちろん受験のための本も読みましたが、全然関係ない本も読みましたよ。どっちが多いか分からないくらい(笑)。(だから二浪もしたのかなあ(悩)?ま、とにかくそのおかげでもともと理系だった私は文転し、金持ちになろうと経営学を学ぶべく、某公立大の経済学部に入学しました。(その大学には経営学部というものはなく、経済学部経済学科 経営学専攻という形でした。)

そしてこれからは中国が熱いと考え(今考えると結構いい読みしてたんだなぁ・・・。)、第二外国語に中国語を選択。意気揚々と入学式を迎えました。

そして、その日のうちに早くも道を踏み外していきました・・・。だって、日本の大学って勉学にいそしむ環境じゃないですよね・・・。

覚えたのは酒の飲み方くらい(笑)。気がつけば、卒業必要単位ぎりぎりで、しかも教授の温情で卒業してました。もちろん(?)、就職活動なんてしてませんでしたから、はっきりいってプーって奴です。

 そこで私はどうしたかと申しますと、沖縄に移住しました(笑)!

★そして、沖縄へ。

ちょっと飛躍しすぎましたね(笑)。

では少しだけ、なぜ私が沖縄に移住する事にしたかを説明します。さっきは大学で覚えたのは酒の飲み方だけといいましたが、実は私、英会話なるものを習っていたんです。(嫁:ろくに大学にも行かず・・・。私:ほっといてくれ!)

また、所属していたサークルは、いわゆるチャライ系(?)と呼ばれていた、インカレサークルで、活動といえば合コン合宿ばかり(笑)。(今の大学でもそうなのかなあ?ちなみに、その中でも群を抜くチャラさだったようで、あだ名はチャラ橋でした(笑)。)

その有意義な活動(?)の場として選ばれたのが沖縄だったのです。私はこのときから沖縄のとりこになってました。そして、沖縄ならこっちにいるよりも英語を使う機会は多いだろうと、安易な考えのもとに移住してしまったのです。

しばらくは沖縄の島々をキャンプで渡り歩いていました。(えぇえぇ、そりゃ〜もう最高でしたよ。いま思うと夢のような日々です。)そして、1ヶ月ほどの放浪のあと、結局那覇市に腰を落ち着け、約5年ほど生活する事になりました。

家を借りるためのお金を払ったら、スカンピンになってしまったので、とりあえず居酒屋で働く事にしました。だってここならお金がなくてもとりあえず食べ物にありつけるでしょう?

一年ほど働いているうちにぼちぼち沖縄の生活にも慣れてきてもっともっと沖縄を遊びたくなりました。遊ぶためにはいまよりもっと稼がないとなりません。私は就職情報を見て、ほとんど給料の額だけで応募したのが某教育関係の営業でした。

初めての営業の仕事に疲れ果てていく自分がありました。たしかに給料は普通よりも良かったです。そして、売れればもっと良くなります。しかし、自分の時間はどんどんなくなっていきました。

このころの私は目的意識もたいした向上心もなくただただ遊びたいだけでした。そのためここでの仕事は長くは続かず、もっと楽しそうな仕事を探す事にしました。

そう今度は給料だけでなく仕事内容も考えるようになったのです。成長しました(笑)。もちろん仕事内容の選択の仕方は、働きながら沖縄を遊べる仕事(笑)。

ありましたねぇ〜これが(笑)。なんだかわかります?

それはねぇ、添乗員なんです。いやぁ〜これも大変楽しい仕事でした!とはいってもこのころから私の中で将来への不安が頭をもたげてきたのです。

「いつまでもこんな調子でいいのだろうか・・・?この生活の先にはどんな将来が待ち受けているのだろうか?」

気がつくと自問自答している自分がいるんです。当時28・9になってるんだから当然といえば当然なんですけどね(笑)。

もちろんプロの添乗員で生活している方は大勢います。ただし、私のもう一つの夢である”幸せな家庭を持ちいいパパになる事”が難しいように思えたのです。

事実、添乗員になってから当時一緒に暮らしていた女性とも別れました。だってこの仕事って、家に帰ってこないんだもん(笑)。

忙しくなればなるほど給料は良くなるけど(専門添乗員は日給月給制が多いです。)、まるっきり家には帰れなくなります。とてもじゃないけどマイホームパパにはなれないなと(もちろん人によっては上手にこなしている方もいるとは思いますが・・・。)思った私はすっぱりやめちゃいました。

結局、沖縄でそこそこの給料をもらおうと思うと営業になっちゃうんですよね。次に私が求人情報を見て、「おっ、これは良い!」と思ったのが(今考えるとなぜこう思ったのか不思議でならないんですが・・・。)街金といわれるいわゆる高利貸しです。

ヤバそうでしょう(笑)?でも中に入ると意外とそうでもないんですよ。先輩も面白くていい人ばかりでしたし。何よりお金に関するいろんな勉強が出来ます。結構お勧めですよ、この仕事(笑)。直接的なことばかりではなく間接的にお金にかかわる事も勉強できます。

たとえば宝石の本当の価値だとか、陶器や磁器の価値について、それを現金に変える方法だとかその道の人脈も出来ます。私はなんだか11トンのクルーザーの所有者にもなりましたし、(もちろん自分で名義変更したんですよ。した事あります?船の名義変更(笑)。なかなか出来ない体験ですよね?)

その他、もちろん土地や建物つまり不動産についても学ぶ機会はいっぱいでした。普通の生活してたら法務局だとか公証人役場なんて縁がないですよね。そういうところに毎日のように行くんです。自然と法律の知識やいろんな裏技も覚えていけるんです。すばらしい仕事でしょう?って、いまだからこんなこと言えるんですけどねぇ、じつは…。

その当時はなんだこの仕事はっ!って思いましたよやっぱり。なんだかんだで人様に恨まれる仕事でしたからねぇ。

…そうそう!この仕事をやってる間に、実は分かれた女性とよりを戻したんです。で、よりが戻ったらアッサリ出来ちゃって(笑)。

結局それがきっかけでやっぱりこのまま沖縄で遊んでるわけにはいかないなと(あたりまえでしょ!しっかり働け!←奥様談 ・・・はい!すいませんっ!←私談)地元神奈川に帰ってきっちり就職する事を決心したのでした。

★子育ては、地元神奈川で。

実は私学生のころアルバイトで溶接などを使う鉄工所で働いていたんです。で、求人情報を見てたら「アイアンアートに興味ありませんか?」って。すぐ電話しました。

採用決定!かくして私はアイアンアーティストになったのでした。人生って面白いですね(笑)。

私は順調にアーティストの腕に磨きをかけていき、自分で作った作品を売れるまでになりました。

そんなある日社長に呼ばれて(っていっても社長ひとり社員私一人の超零細企業うなんですけど・・・。)聞かされた話は、

「人を雇う余裕がなくなった。」

「がびーん。」

かくして私はまたも就職活動をする羽目になったのです。(まあそれなりの理由があって、それなりに対処してくれたので納得してリストラされたんですけどね。)

その後、私が見つけた仕事は催事業です。催事というのはスーパーやデパートで、試食販売をしている業者の事です。よくみかけるでしょう?「どこどこ直送の何々です。期間限定ですよー!」って売ってるアレですよ。これがまた結構儲かるんですよ。

私が売っていたのはハンバーグなんですが、まあ普通のハンバーグより高いんですね。値段が。もちろんモノもいいんですけど、1円でも安く買おうとスーパーで目をギラギラさせているおば様方にこれをお買い上げいただくためには、まさにクチバッチョウテバッチョウという感じでした。

ただうまくやれば、1日に20万から30万円の売り上げも期待できるんです。そのうちの3〜4割が粗利となるわけですから、たいしたものでしょう?

★サイドビジネスとの出会い。

ここで1年ほど働いたあたりで、何気なく見ていたホームページでサイドビジネスに出会ったんです。

そのビジネスは、割りと初心者向けで教育に重点をおいていたので、なんだかそのときの私にはぴったりに思えて、すぐに入会しちゃいました。

当時、そのビジネスに参加する前の私はといえば、催事業のおかけで貯金は増えていくのですが、自分の時間は減っていく一方で、将来になんの夢も持てず、ただ家庭にお金を持ってくるだけのつまらない男になっていました。でも、それが家庭をもつということだと思っていましたので、ただただ我慢していました。

そのときのわたしは、口を開けば愚痴ばっかり、家族のあら捜しばかりをして、俺が養ってるんだぞと偉ぶる始末。

家庭でのわたしの居場所はどんどんなくなり、仕事をしているときが一番楽に思えるようだったのです。

それがそのビジネスの案内を見ているだけで、

「こんな生き方もあるんだ!」

とまさに目からうろこでした。そして、今の状況がベストじゃない事も非常に良く分かったんです。それに気づいたとき、私は最後の辞職をしました。

結局そのビジネスは、資金を回収する前におかしなことになってきたので辞めちゃいましたが、あの出会いのおかげで私の人生は本当に有意義で楽しいものになりました。

もちろん全てがそのビジネスのおかげではなく、いわゆるキッカケに過ぎないのですが、本当にすばらしいキッカケでした。

私はいま幸せです。将来の夢ももてました。夢を一緒に語る友人もそのビジネスを通して得られました。夢を一緒にかなえていく家族との関係もすばらしく改善しました。毎日が楽しくてしょうがないんです。

私がこのホームページを作ろうと思ったのは、こんな風に、

「一人でも多くの人が人生を楽しむきっかけになれたらいいなぁ。」

と思ったからです。

遊ぶことばかりが楽しいことではないんですね?私は最近、また本をたくさん読むようになりました。いろんなことを学ぶのがとっても楽しいんですよ。

まして、そうすることで収入もどんどん上がっていくことを思うと、楽しくて仕方ありません。

私は現在フリーターです。ちょこっとしたアルバイトで家族4人で暮らしています。

でも夢もあるし、夢をかなえる自信、イヤ、確信がありますので、特に人生に焦りはありません。

みんなからみればかなり危なっかしく見えるみたいですが、いつつぶれるか分からない会社に依存して、もらえるかも分からない年金や退職金をアテにして、将来の夢もなく疲れていく毎日を過ごすのはもうイヤなんです。

私の実家の自営業はすでに破綻をきたしてます。親戚の家の有限会社はとっくにつぶれました。何でそんな親や親戚が私の考え方が危ないといえるのでしょう?

恐ろしいことにいまあなたの耳に入る情報は、こういった無責任なマイナス思考がほとんどだとは思いませんか?

私はいまの世の中に、頼れるものやアテにできるものなんかもうないんだと気づいたときに、自分だけは頼れる存在になろうと決心したのです。自分自身にとっても、私の家族にとっても。

それには日々向上心を忘れずに生きていくのが大事なようです。

そして、それを忘れないためにも、このホームページは随時更新していきます。

私自身と一緒に成長していくホームページにしますので、たまには遊びにきてやってください。

長くつたない文章に、最後までお付き合いいただきありがとうございます。